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頑張れ!人類!?

ロボットに感情は存在し得るのか?

そんなもんあるわけがない。その前に、そこまで人に近いロボットが現存していないから、まったくもって論外。

多分そういう意見が大半なんだろうなぁ~とは思うんですが、自称ロボット好きの自分としては、これは多分生きている間に何度となく自問自答して、そして回答の出ないままに死んでいくんだろうなぁという問題だったりします。いや、自問自答したところで、ロボットなんて自分で作れないんだから、それこそ論外なんですケド(笑)

ただ、この間読んだ本にちとばかり面白いことが書いてあったので『なるほど、それほど捨てたもんでもないんだなぁ~この問題って』って思ったりしたわけです。で、何が書かれていたのかといえば、

二人の人間に対して、今現在目の前にあるものの色を答えよと言った場合、両人ともに『青だ』と答えたとしても、果たしてそれは本当に同じ色として感じているということになるのだろうか?

という話なんですよ。(ま。そのまま抜粋じゃないんで概ねこんな感じ?みたいな(笑))同じ色名を答えているんだから、同じ色として感知しているのだろう…というのが一般的な考え方。というか、当たり前だよなぁ~って思いますよね。しかし、もしここに『絶対的視野を持つ神の目』なんていうものが存在すると、非常に怪しくなってくるわけなんです。

で、『神の目』ってなんぞや?

今の例でいけば、片方の人間が『青だ』と認識している色と、もう一方の人間が『青だ』と認識している色が本当に一致している色なのか?ということが判定出来る目のことなんですよ。ようは、片方の人間が、一定条件の光源の元、この色素に対して錐体細胞が感知した情報から脳が導き出したものと、他方の人間が同じ経路で判定した上で導き出した結論が一致しているということを証明出来て、尚且つ『青』という色の絶対的概念を認知している目。ただこう書くと、

『青』は『青』なんだから、自分たちだってちゃんとわかっていってるし、何が神の目なんだ?

って思われちゃうかもしれませんね…(^^;)説明が難しい!例えば今現在自分が『青』だと認識しているものが、実は他の人にとっての『緑』だと感じ取れるものだったとしても、自分ではその色が『青色』という名称の色だと思っているから、『それは青い』という結論を導き出すことが出来る。だから、結果としては両人ともに『それは青だ』という結論に到達することは可能。でも実際には錐体細胞が感知した色は違う。

かといって、第一の人物が感知した『青色』が第二の人物にとっての『緑色』だったとしても、第一の人物が誤った判断をしていて第二の人物が正常に感知しているという判定を下すことが出来ないんですよ!だってもしかしたら、第二の人物が『青色』と感知している色は、第三の人物にとっての『緑色』かもしれない。そして、第三の人物が感知している『緋色』は第一の人物にとっての『黄色』かもしれないんです。それでも感知した色に対する名称が一致していれば、結果としては同じ色名が導き出される。よって、誰が正解で、誰が間違っているのかなんて、誰にも指摘出来ないんですよ。(というより、間違っているのかいないのかすら判断が出来ない!)

判断基準になりえる絶対的概念というのがこの考え方では見当たらないんです。

で、その基準を持っているというのが神の目です。そして、自分とは違う人間が感知しているものと自分が感知しているものが同じなのか違うものなのかを見分けることが出来るというんですからそりゃホントの神業です。そしてここで言えるのは…

そんなもんありえませんや~ね(--)(__)

ということ。他人の脳みその中でどんな信号が往来していて、その結果どの色として結論付けられているかだなんてこと、自分の脳みその中身だってわかりゃしないのに、わかれっていう方がどだい無理な話です。…で、

これを感情とか感想とか、そういったものに置換してみると、そりゃもうすっとんきょうな話になるんです!

人物Aと人物Bが食事していたとする。人物Aは皿のものを食べて微笑み『おいしい』と評する。人物Bは皿のものを食べてやっぱり微笑んで同じように『おいしい』と評する。よって、その皿のものに対して二人の評価は『おいしい』ということになり、それは喜怒哀楽でいうところの『喜』もしくは『楽』である…はずなんですが、ここで色のときと同じように、神の目の視点からみてしまうと、

今現在目の前にある食べ物に対する評価をしろと言った場合、両人ともに『おいしい』と答えたとしても、果たしてそれは本当に『おいしい』と感じているということになるのだろうか?

要するに、Aにとってそれは『何も感じられない』ものであったのにも関わらず、そのリアクションは『おいしい』という言葉と微笑みというもので表現されるものであったかもしれない。Bにとってそれは『怒り』を伴うほどのまずさであるという認識が成されていたのにも関わらず、そのリアクションはやはり『おいしい』という言葉と微笑みという形で表現されるべきものだったのかもしれない!

…という、通常『微笑む』という挙動と『おいしい』という言葉に関連付けられていると思われている(?)『喜』、『楽』というものが、本当に万人にとっての一致した法則なのかといえば、神の視点から覗いてみたら、実は全く違うものかもしれないというわけなんですよ!

そんなもん、誰にもわかるわけがないじゃ~ないですか(^◇^;)

ようは、中身で何がどういう経路で処理されていて、どういう風に出力されていようが、自分たちにわかるのは『その結果、目に見えるもの、聞こえるもの、触れられるもの、兎に角受信が可能なもの…』それだけなんですよね。

だから『微笑む』という動作をとった当人が『それは喜怒哀楽のうちの喜である』と主張しているというよりは、その表情から『この人物は喜を主張しているのではないか』と受け止めた側が判断していると言えなくもないな~と思うわけですよ。

(これがもし、受け止め側が『微笑む』という行為を『怒』の象徴として関連付けていたとすれば、相手は怒っているのだと思うのだろう。しかしながら、そういう関連付けがなされている場合、その人物が更に相手に返すリアクションも『怒』を表現する『微笑み』という手段をとることになり、端からみれば仲良く微笑む人々の図…という至極普通の光景が繰り広げられるというわけです…そんな馬鹿な(^^;)!!)

そこで自分が考えたこと。

もし、『感情』が生じるという現象が『それを発する』というシステムではなく、『発せられた何かを受信した側が発するもの』というシステムが成立するものだという考え方が、ほんのわずかでも出来るのであれば、近い未来少なくとも表面上は人間と同じ形態を持つロボットが、人間と同じように『微笑む』という表情をみせたとき、その表情を作り出すまでにどのような経路でどのような演算が行われていて、そしてどのような出力結果を導き出してそこに辿り着いたとしても、その表情に『喜』や『楽』を見出すことは可能なのではないか?って思うんですよね。だって、

『感情』を発すると思われてきた『心』という器官は、結局存在すら確認出来ていないのだし、『感情』を発する発端となるものが出力されているのは、神の目が存在しないこの世の中では『人間』というブラックボックスであるか、はたまた演算回路を見ることが可能な『ロボット』というスケルトンボックスであるかという違いだけなんですから…(多分に希望的見解を含んではいるんですけどね(^^;))

どっぺん。。。

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参加中デス。これを書いてる最中にPDAが逝きました…(T-T)そして繋がっていたパソコンまで半死状態(涙)大したことしてたわけじゃないのに!っていうかつないだだけなのに!!うぬれ、M社め!!と、哀なんだか怒なんだかわけのわからなくなっているまんたろうにひとつお恵みのぽちっとをお願いしま~す(^^;)
by r_elemental | 2004-08-05 22:26 | 折り詰め作成中(日常雑記)
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